ワセダサロン3月例会(第593回)

世間ではアメリカによるイラン攻撃、又もオイルショックかとばかりガソリン価格の上昇が伝えられる3月14日(土)、ワセダサロン3月例会を武蔵小杉ユニオンビルにて井上会長(1969法研)の乾杯と板橋幹事長(1977政経)の司会で開催した。サロン初参加の皆川敏明氏(1972法)の自己紹介のあと、藤沢稲門会(2/23)、大和稲門会(2/28)、箱根駅伝健闘を祝う会(3/7)、代議員会(3/7)等、各出席者からの報告があり、加えて今後の予定として、3/17神奈川県支部幹事長・事務局長会議や次回4/18のワセダサロン講師の山本正子氏の紹介、5月下旬には慶應三田キャンパス見学の紹介があった。今日のゲストは、東京六大学野球平成2(1990)年春季リーグ戦でエースナンバー11を背負って7完投勝利を挙げ、優勝に貢献された市島 徹氏である。

テーマは氏が4年時の「平成2年春季リーグ戦優勝秘話」。氏は小3で野球を始め、父も伯父も早稲田だったため早稲田野球部に憧れた。高校は県立鎌倉高校で夏の高校野球予選では3回戦までだった。昭和62(1987)年教育学部社会学科に入学し念願の野球部に投手として入部、戸塚の安部球場最後の新人で、2年次からのグラウンドは東伏見である。新人は60人ほどだったが上下関係が厳しいのと激しい練習で、次々と脱落、秋に新人でベンチ入り出来たのは6人だった。新人の昭和62(1987)年秋、対立教戦でリーグ戦初登板、4番長嶋一茂に3塁打を打たれ1死を取っただけで降板し自責点4、防御率108の散々なデビュー戦だった。翌昭和63(1988)年春に伝説の「早慶6連戦」(昭和35(1960)年秋)の優勝監督、鬼の連蔵と言われた石井連蔵氏が監督として戻ってきた。猛練習は噂通り、「右投げならば打者の胸元に食い込むシュートを覚えろ」と50球投げたら外野の左翼~右翼を全力でランニング、そして又50球投げる、この繰り返しを何回か。ノックを続けて受ける選手がどんどん逃げていくのを追いかけてノック、とうとうグラウンドを一周してしまったとの逸話も。膝くらいにまで積もった雪の中でのノックはすさまじかった。雪だるまのようになった重いボールが上手く投げられない時でも運ぶように手渡ししてでも相手に渡せと。❝真剣にやれ、真剣にやれば体は壊れない❞、石井連蔵監督の信条だった。昭和63(1988)年春は、3年小宮山悟(現野球部監督)と2年市島のローテーションが確立、2勝を挙げた。防御率は0.78で1位であった。秋は3勝、そして3年になって調子を維持しようと思っていた矢先、肋骨の一部に軟骨が出来たこともあり、3年時での勝利は東大相手の1勝のみ、監督から「辞めちまえ!帰れ」と怒鳴られて、翌日浦和の監督自宅近くの医者に連れて行かれた。石井夫人からは監督の本心は「小宮山が卒業した来年は市島に託す」と聞かされ、❝真剣にやれば怪我をしない❞を胸に刻み、更に監督からは❝エースはリーグ戦で7勝せよ❞と言われる。4年時の平成2(1990)年春は法政と明治が強かったが、エース市島が監督の言葉通りリーグ戦7勝と、仙台育英出身の新人大越基の活躍で、実に8年15シーズンぶりの優勝、石井監督が胴上げで宙を舞った。この試合の市島投手交代の場面、偶然に取材していたテレビ朝日「ニュースステーション」で放送された数分間に及ぶVTRを席上でも視聴した。

分かりやすい語り口と様々な資料を駆使した講演【石井連蔵と出会って人生が変わった】は、

出席者に多大な共感を与えた。校歌斉唱と市島氏へのエールで散会。(井上勝利 記)

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